業者への支払い期日が迫っているのに、故人の口座は死亡の連絡を入れた瞬間に凍結されてしまった――遺品整理の現場でよく聞く話だ。手持ちで立て替えるにも数十万円単位の出費になることがあり、かといって遺産分割協議はまだ何も決まっていない。「故人が遺したお金だから、そこから払えばいい」と単純に考えてよいかというと、話はそう簡単ではない。相続税の計算上その支出がどう扱われるかという問題と、遺産分割前の共有財産に手をつけることが相続放棄の道を閉ざしかねないという問題が、同時に絡んでくる。
遺品整理費用は相続税の「債務控除」の対象になるか
相続税を計算するとき、相続財産の額から被相続人の債務や葬式費用を差し引くことができる。これが債務控除だ。国税庁のタックスアンサーは、差し引ける債務を「被相続人が死亡したときに現に存在した被相続人の債務」で「確実と認められるもの」に限定している(国税庁 No.4126 相続財産から控除できる債務)。遺品整理の費用は、被相続人が亡くなった後に相続人側の判断で発生させる支出であり、死亡時点ですでに存在していた借入金などとは性質が違う。この意味での債務控除の対象にはならないと考えるのが素直な読み方になる。
葬式費用として認められる範囲との違い
債務控除とは別枠で、相続税では葬式費用も相続財産の額から差し引ける。国税庁のタックスアンサーが挙げる控除対象は、火葬・埋葬・納骨にかかった費用、遺体や遺骨の回送費用、通夜など葬式の前後に生じた葬式に欠かせない費用、読経料などお寺への謝礼、遺体や遺骨の捜索・運搬にかかった費用だ。反対に、香典返しの費用、墓石や墓地の購入・借用費用、初七日などの法要費用は控除の対象外だと明記されている(国税庁 No.4129 相続財産から控除できる葬式費用)。この一覧に遺品整理費用は含まれていない。葬式費用としての控除も、基本的には想定されていないとみるのが自然だ。
相続財産から遺品整理費用を出すと「処分」とみなされないか
債務控除にも葬式費用にもならないとして、では被相続人の預金から遺品整理費用を支払うこと自体に問題はないのか。ここで浮かぶのが、民法921条1号の「法定単純承認」だ。相続人が相続財産の全部または一部を「処分」したときは単純承認をしたものとみなされ、あとから相続放棄をしようとしてもできなくなる。この規定と遺品整理費用の支払いがどう関係するかは、当サイトの法定単純承認についての記事で扱った大阪高裁平成14年7月3日決定が手がかりになる。同決定は、被相続人名義の預金を解約して仏壇・墓石の購入費用に充てた行為について、遺族がこれを利用して仏壇や墓石を購入することは自然な行動であり、社会的に不相当に高額なものでない限り単純承認にはあたらないと判断した。この「社会通念上相当な範囲かどうか」という物差しは、葬儀費用に限らず遺品整理費用にもそのまま当てはまると考えられる。搬出や処分にかかる実費相当額を、相場からかけ離れない範囲で支払う限り、直ちに「処分」と評価されるリスクは高くない。
注意が要るのは、負債の存在に確信が持てず相続放棄を検討している段階での支出だ。民法921条3号は、相続放棄をした後であっても相続財産を「隠匿」し「消費」したときは単純承認をしたものとみなすと定めている。相続放棄をする前に故人の預金から高額な整理費用を支払い、しかも領収書も見積書も残していないという状況は、あとから「処分」や「消費」の疑いをかけられたときに説明のしようがない。相続放棄を予定しているなら、遺品や預金に手をつける前に放棄の手続きを先に終えるか、支出の記録を必ず残しておく順序が要る。相続放棄をした後に誰が遺品を保管する義務を負うのかについては、相続放棄後の保存義務についての記事で扱っている。
遺産分割前でも一定額まで預金を引き出せる「909条の2」の払戻し制度
相続税の控除にはならないとしても、相続人全員が合意すれば、遺産分割協議の中で「遺品整理にかかった費用は、いったん遺産である預貯金などから支払い、最終的な取り分を計算するときに差し引く」という取り決めをすること自体は、実務上珍しくない。問題は、遺産分割が成立する前は被相続人名義の預貯金が相続人全員の共有財産となり、一人の相続人が自由に引き出せるわけではない点だ。
この不便を解消するために設けられたのが、2019年7月1日に施行された民法909条の2「遺産分割前における預貯金債権の行使」の制度だ。条文は、各共同相続人が「遺産に属する預貯金債権のうち相続開始の時の債権額の3分の1に第900条及び第901条の規定により算定した当該共同相続人の相続分を乗じた額」について、単独でその権利を行使できると定める。ただし、この金額には法務省令で定める上限があり、同一の金融機関に対しては150万円が限度とされる。法務省の解説も、遺産分割が終わるまでの間に相続人が債務の弁済や生活費の支弁などで資金が必要になった場合に、家庭裁判所の手続きを経ずに払戻しを受けられる仕組みとして、この制度を紹介している(法務省 民法及び家事事件手続法の一部を改正する法律について(相続法の改正))。遺品整理の当面の出費も、この枠組みの中で工面できる場合がある。
150万円では足りないときの「家庭裁判所の保全処分」という選択肢
909条の2の上限額は、金融機関ごとに150万円までだ。相続財産全体が大きく、遺品整理業者への支払いや当面の生活費がこの金額を超えるようなケースでは、上限を超えて仮に預貯金を取得する別の手段がある。家事事件手続法200条3項は、遺産分割の審判または調停の申立てがあった場合において、相続財産に属する債務の弁済や相続人の生活費の支弁その他の事情により預貯金債権を行使する必要があると家庭裁判所が認めるときは、他の共同相続人の利益を害しない限り、申立てにより特定の預貯金債権の全部または一部を仮に取得させることができると定めている。この「預貯金債権の仮分割の仮処分」は、法務省の解説でも909条の2と並ぶもう一つの払戻し経路として説明されている(法務省 民法及び家事事件手続法の一部を改正する法律について(相続法の改正))。ただし、すでに遺産分割の審判・調停が家庭裁判所に係属していることが前提になり、909条の2のように窓口で即日払い戻せる手軽さはない。少額の整理費用であれば909条の2、それでは足りない事情があれば保全処分、という二段構えで制度が組まれている。
なぜ死亡すると口座は凍結されるのか——最高裁平成28年決定という転換点
そもそも、なぜ相続人全員の同意がなければ預金を動かせないという不便が生じるのか。その背景には、最高裁判所大法廷が平成28年12月19日に下した決定がある。それまでの実務は、預貯金を「可分債権」として扱い、相続開始と同時に各共同相続人の相続分に応じて当然に分割されるという理解に立っていた(弁護士法人ユスティティア 預金と遺産分割に関する最高裁決定)。当然に分割されるなら、理屈のうえでは各相続人が自分の相続分に相当する金額を単独で払い戻せることになる。ところが平成28年の決定は、この理解を転換し、普通預金債権・通常貯金債権・定期貯金債権はいずれも相続開始と同時に当然に分割されることはなく、遺産分割の対象になると判示した。国税庁税務大学校の研究論叢も、この決定が預貯金契約の性質――普通預金は継続的取引契約であり、定期貯金は契約上分割払戻しが制限されるという性質――に着目して判断を下した点を紹介している(国税庁 税務大学校論叢94号 相続預金に対する滞納処分上の諸問題)。預貯金が遺産分割の対象になった結果、遺産分割が終わるまでは相続人全員の同意がなければ払戻しに応じない、という金融機関の実務が固まった。909条の2と家事事件手続法200条3項の払戻し制度は、この判例変更によって生じた「使いたくても使えない」という不便を埋め合わせるために、2019年の相続法改正で新設された制度だ。口座凍結そのものは金融機関の窓口対応というより、この判例変更に端を発した法的な帰結だと理解しておくと、なぜ即座に全額を引き出せないのかへの納得感が違ってくる。故人の口座がどこにあるか分からない場合の具体的な探し方は、預金口座の探し方についての記事にまとめてある。
払い戻したお金は遺産分割でどう扱われるか
ここで注意したいのは、909条の2を使って払い戻した預貯金の位置づけだ。条文は、権利を行使した預貯金債権について「当該共同相続人が遺産の一部の分割によりこれを取得したものとみなす」と定めている。払い戻したお金は、その相続人が遺産の一部を先に受け取ったものとして扱われるということだ。遺品整理費用として使い切ってしまった場合でも、後の遺産分割協議では、その相続人がすでに一部の遺産を取得済みという前提で残りの分け方を話し合うことになる。家庭裁判所の保全処分によって仮に取得した預貯金も、扱いの考え方は同じで、最終的な遺産分割の中で清算される。
この「一部分割によって取得したものとみなす」という構成は、法定単純承認の「処分」とは法律上の位置づけが異なる。921条1号の処分が、他の相続人の持分にまで及ぶ財産を独断で動かす行為を指すのに対し、909条の2は最初から自分の取り分の一部を先取りする権利として条文に明記されている。だからこそ、909条の2による払戻しは家庭裁判所の許可も他の相続人の同意も要らないわけだ。とはいえ、いくら払い戻していくらを何に使ったかを記録し、他の相続人にも説明できるようにしておくことに変わりはない。遺品整理費用を誰がどう負担し、立て替えた分をどう精算するかという実務的な整理は、遺品整理の費用は誰が払う?相続人間の負担割合と、一人が立て替えた場合の精算方法に譲る。
香典や生命保険金を遺品整理費用に充ててもよいか
相続財産である預貯金を動かすことに慎重になった結果、代わりに香典や生命保険金を遺品整理費用に充てたいと考える人もいる。この二つは、そもそも相続財産に含まれるかどうかの位置づけが預貯金とは違う。香典は、慣習上「喪主への贈与」として扱われ、被相続人の相続財産には含まれず遺産分割の対象にもならないという理解が定着している(税理士法人チェスター 香典は相続財産ではない(分割対象外・相続税の対象外))。社会通念上相当な金額であれば贈与税や相続税もかからない。喪主が受け取った香典を、そのまま遺品整理費用や葬儀費用に充てることに法律上の障害はない。
生命保険金についても事情は近い。死亡保険金の受取人が「相続人」など特定の個人に指定されている場合、その保険金請求権は保険契約の効力発生と同時に受取人固有の財産となり、被相続人の相続財産からは切り離される。相続財産に含まれない以上、これを遺品整理費用に充てても、法定単純承認の「処分」には当たらない。この理屈の根拠になる最高裁昭和40年2月2日第三小法廷判決については法定単純承認についての記事で詳しく扱った。ただし、受取人が「被相続人自身」に指定されている契約は話が別で、保険金請求権がいったん被相続人に帰属してから相続財産に組み込まれるため、通常の遺産と同じ扱いになる。証書の受取人欄は、支払いに充てる前に必ず確認しておきたい。
記録を残すことが、あとの説明を軽くする
遺品整理費用の支払い方には、被相続人の預金を909条の2で払い戻す方法、家庭裁判所の保全処分を使う方法、香典や自分固有の生命保険金を充てる方法、相続人の一人が立て替えて後で精算する方法と、複数の選択肢がある。どれを選んでも、相続税の債務控除や葬式費用の対象にはならないという結論は変わらない。変わるのは、誰にどこまでの同意や記録が必要になるかという手続きの重さだ。何にいくら使ったかを領収書や見積書で残し、他の相続人にも早い段階で共有しておくこと。遺品整理をめぐるトラブルの多くは、金額の多寡そのものよりも、この説明の不足から生じている。

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