還暦を過ぎたあたりから、同年代の集まりで「もし自分が認知症になったら、銀行口座が止まって、家族も介護費用を引き出せなくなるらしい」という話を耳にする機会が増えてくる。元気なうちに何か手を打っておきたいと思っても、成年後見制度は判断能力が衰えたあとに家庭裁判所へ申し立てて初めて動き出す仕組みで、「今」のうちに結んでおける契約ではない。実は、判断能力があるうちに「将来、衰えたときに備えて」契約を結んでおく制度が、成年後見制度とは別に用意されている。
1. 任意後見契約とは何か——判断能力が衰える「前」に、自分で後見人を選んでおく契約
成年後見制度には、家庭裁判所が後見人を選ぶ「法定後見」と、本人があらかじめ自分で後見人を選んでおく「任意後見」の2種類がある。裁判所の案内は任意後見制度について「本人の判断能力が不十分になったときに、本人があらかじめ結んでおいた任意後見契約にしたがって任意後見人が本人を援助する制度」とし、「家庭裁判所が任意後見監督人を選任したときから、その契約の効力が生じます」としている。法定後見が判断能力の低下後にしか使えないのに対し、任意後見は判断能力が十分なうちに、誰に何を頼むかを本人自身が決めておける点が最大の違いになる。
任意後見契約に関する法律第2条は、この契約を「委任者が、受任者に対し、精神上の障害により事理を弁識する能力が不十分な状況における自己の生活、療養看護及び財産の管理に関する事務の全部又は一部を委託し、その委託に係る事務について代理権を付与する委任契約」と定義している。つまり任意後見契約の正体は、民法上の委任契約の一種であり、特別な制度というより「将来発動する委任契約」と捉えたほうが理解しやすい。法律はさらに第10条で、任意後見契約が登記されている場合、家庭裁判所は本人の利益のため特に必要があると認めるときに限って法定後見を開始できると定めており、本人自身が任意後見という形で残した意思を、法定後見より優先して尊重する建て付けになっている。
2. 契約は公正証書でなければならない——方式と費用
任意後見契約に関する法律第3条は「任意後見契約は、法務省令で定める様式の公正証書によってしなければならない」と定めている。私文書や手書きのメモで「将来のことは長男に任せる」と書いておいても、それだけでは法律上の任意後見契約にはならない。公証人が本人の意思と契約内容の法的な適正さを確認したうえで作成するという手続きを踏むことで、本人が誰かに言われるままに不利な契約を結ばされていないかを、第三者の目でチェックする仕組みになっている。
費用について、日本公証人連合会の案内は、公証役場の基本手数料が11,000円(公証人が出張して作成する場合は16,500円に日当・交通費が加わる)、法務局に納める収入印紙代が2,600円、登記嘱託手数料が1,400円、このほかに重量に応じた書留郵便料と、正本・謄本の作成手数料(1枚250円)がかかるとしている。財産管理等委任契約を同時に結ぶ場合や、受任者を複数人にする場合は、この基本費用に追加の手数料が加算される。
3. 契約の結び方は3通りある——移行型・即効型・将来型
任意後見契約には、本人の状態や希望に応じて3つの型がある。法務省の資料は、判断能力が低下する前から財産管理等の委任契約を結んでおき、低下後にその委任契約から任意後見契約へ切り替える「移行型」、契約締結時点ですでに判断能力が不十分な状況にある人が、締結後ただちに任意後見監督人の選任を請求して当初から保護を受ける「即効型」、十分な判断能力がある本人が契約締結時点では後見事務の委託をせず、将来判断能力が低下した時点で初めて保護を受けようとする「将来型」の3つを挙げている。体力はまだあるが日々の振込や役所の手続きが億劫になってきた、という段階の人には移行型が、判断能力の低下がすでに始まっている人には即効型が、今はまったく問題がないが将来に備えておきたいという人には将来型が、それぞれ想定されている。
4. 契約の効力はいつ生じるか——任意後見監督人の選任
公正証書で契約を結んだだけでは、任意後見契約はまだ効力を持たない。任意後見契約に関する法律第4条は「精神上の障害により本人の事理を弁識する能力が不十分な状況にあるときは、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族又は任意後見受任者の請求により、任意後見監督人を選任する」と定めており、この監督人が選任されて初めて、契約の受任者は「任意後見受任者」から「任意後見人」になり、代理権を行使できるようになる。本人以外の配偶者・四親等内の親族・任意後見受任者が申し立てる場合には、あらかじめ本人の同意が必要になる。同条第3項は「本人以外の者の請求により任意後見監督人を選任するには、あらかじめ本人の同意がなければならない」としたうえで、「本人がその意思を表示することができないときは、この限りでない」という例外も置いており、家族であっても本人の意思を確かめずに後見を発動させることはできない仕組みになっている。
監督人には誰でもなれるわけではない。法律第5条は「任意後見受任者又は任意後見人の配偶者、直系血族及び兄弟姉妹は、任意後見監督人となることができない」と定めており、受任者と近しい家族を監督人にすることはできない。長男を任意後見人に選んだ場合、長男の配偶者やきょうだいを監督人に据えることは認められず、必ず受任者とは独立した第三者(多くは弁護士や司法書士などの専門職)が選ばれる。法律第7条が監督人の職務として「任意後見人の事務を監督すること」「家庭裁判所に定期的に報告をすること」を挙げているとおり、本人が選んだ受任者を、家庭裁判所が選ぶ独立した監督人がチェックするという二段構えによって、身内だけで財産管理が完結しない仕組みが保たれている。
5. 「移行型」で見落とされがちな注意点
実務でもっとも多く使われているのが移行型だが、ここには構造上の弱点がある。判断能力が低下する前の段階である財産管理等委任契約の部分は、任意後見監督人による監督を受けない、本人と受任者だけの私的な契約にすぎない。判断能力が実際に衰えてきても、受任者が任意後見監督人の選任を家庭裁判所に申し立てなければ、契約はいつまでも委任契約のままで、誰からも監督されない状態が続いてしまう。神奈川県弁護士会が開催したシンポジウムの資料でも、移行型をめぐる「効力発生時の問題」として監督人選任申立てのタイミングの分かりにくさが議題にあげられている。契約を結んだ本人だけでなく、将来その契約を見つけることになる家族の側も、「いつ、誰が、監督人の選任を申し立てるのか」をあらかじめ決めておかないと、せっかくの備えが宙に浮いてしまうことを知っておく必要がある。
6. 契約が終わるとき——本人の意思による解除と、死亡による終了
任意後見契約に関する法律第9条は、解除の手続きを監督人選任の前後で分けている。監督人選任前であれば、本人または任意後見受任者は、いつでも公証人の認証を受けた書面によって契約を解除できる。合意のうえで解除する場合は認証済みの合意解除公正証書を作成すれば足りるが、一方的に解除する場合は、認証を受けた意思表示書を内容証明郵便で相手方に送り、それが到達した時点で効力が生じる。これに対して監督人選任後は、本人や任意後見人が自由に契約をやめることはできず、正当な事由がある場合に限り、家庭裁判所の許可を得て初めて解除が認められる。いったん家庭裁判所が関与し始めた後は、本人の意思だけで契約関係を一方的に終わらせることができなくなる。
では、本人が亡くなった場合はどうなるのか。千葉家庭裁判所の手引きは、任意後見契約が終了する場合として、契約の解除、法定後見の開始とならび「当事者(本人、任意後見人)の死亡、破産等」を挙げている。大阪家庭裁判所の資料も同様に「本人又は任意後見受任者が死亡又は破産した場合など」を終了事由としており、法務省の資料も、委任契約の一般原則である民法第653条にしたがって本人または受任者の死亡等により契約が終了すると説明している。任意後見契約はあくまで委任契約の一種である以上、委任者か受任者のどちらかが亡くなれば、その時点で自動的に終わる。本人が亡くなったあとも任意後見人がそのまま財産を管理し続けられる、という制度ではない。
7. 本人が亡くなったあと、家族がしなければならないこと
契約が自動的に終わるといっても、何もしなくてよいわけではない。法務省のQ&Aは「本人の死亡などにより法定後見又は任意後見が終了したときは『終了の登記』を、申請する必要があります」としたうえで、この終了の登記は任意後見人本人だけでなく「本人の親族などの利害関係人も行うことができます」としている。本人が亡くなったことに気づいた家族が、法務局に対して任意後見契約の終了の登記を申請できる(し、実務上は申請しておくべき)ということになる。
ここで見落とされがちなのが、任意後見契約はあくまで本人が生きている間の生活・財産管理を頼む契約であって、葬儀の手配や遺品整理、納骨、各種契約の解約といった死後の事務までは当然には含まれないという点だ。任意後見人は本人の死亡と同時にその地位を失うため、死後の事務を誰かに頼みたいのであれば、任意後見契約とは別に死後事務委任契約を結んでおく必要がある。実務では、任意後見契約と死後事務委任契約を同じ公証役場で同時に結んでおくケースが多いが、それはこの「死亡と同時に権限が切れる」という任意後見契約の弱点を、別契約で埋め合わせる必要があるためだ。身寄りが少ない人ほど、この二つをセットで考えておかないと、生前の備えはできていても死後の段取りだけが抜け落ちてしまう。
8. 任意後見監督人の報酬はどのくらいかかるか
任意後見人自身への報酬は、本人と任意後見受任者のあいだで契約時に話し合って決めるため、家族がそのまま引き受ければ無報酬にすることもできる。これに対して任意後見監督人の報酬は、家庭裁判所が本人の財産状況などを踏まえて審判で決定するものであり、本人と監督人のあいだで自由に取り決めることはできない。大阪家庭裁判所が公表している目安では、管理財産額が5,000万円以下の場合は月額1万円から2万円、5,000万円を超える場合は月額2万5,000円から3万円とされている。これはあくまで大阪家庭裁判所が示す一つの目安であって全国一律の基準ではなく、実際の金額は申立先の家庭裁判所の審判による。月額とはいえ本人が亡くなるまでのあいだ継続してかかる費用であるため、任意後見制度を利用するかどうかを考えるときは、この監督人報酬が長期にわたって発生し続けることも織り込んでおく必要がある。
9. 誰に任意後見人を頼めるか——家族か、専門家か
任意後見人になるために特別な資格は必要ない。成年に達していれば、配偶者や子どもといった家族は言うまでもなく、友人や知人であっても、本人が信頼できると判断した相手を任意後見受任者に選ぶことができる(未成年者や破産者など、法律上後見人になれない欠格事由に該当する人は除かれる)。家族に頼める相手がいない場合や、財産管理を家族だけに任せるのは心配だという場合には、弁護士・司法書士・行政書士といった専門職や、社会福祉協議会などが運営する法人後見、研修を受けた市民後見人を受任者にする選択肢もある。家族信託が財産の管理・運用に特化した仕組みであるのに対し、任意後見契約は財産管理に加えて、介護サービスの契約や施設への入居手続きといった身上監護の部分までカバーできる点が異なる。どちらか一方を選ぶというより、財産の性質や家族の状況に応じて、家族信託と任意後見契約を組み合わせて使うケースもある。
すでに判断能力が低下した家族のために法定後見人の選任を検討している人や、後見人がついていた家族を亡くした人にとっては、任意後見契約はすでに手遅れの話に聞こえるかもしれない。しかし任意後見契約が意味を持つのは、本人がまだ元気で、自分の意思をはっきり契約書に残せるうちに限られる。親の通帳管理に困ってから何かできることはないかと調べ始めるのではなく、自分自身の将来について、判断能力が十分なうちに公証役場の扉をたたいておくことが、この制度を使う唯一のタイミングになる。

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