遺品整理中に賃貸の管理会社から解約と敷金返金の連絡が来たら?相続放棄を考えているときに受け取ってはいけない理由

疎遠だった父が一人で暮らしていた賃貸アパート。死亡から3週間ほどが経ったころ、管理会社から電話がかかってきた。「退去の手続きを進めたいので、解約のご返事と、敷金の返金先の口座を教えてください」。遺品整理はまだ途中で、借金があるかどうかも分からず、相続放棄をするかどうかの判断もついていない。管理会社の言う「返ってくるお金」を、今この段階で受け取ってよいのかが分からない。

賃貸借契約は、賃借人の死亡では終わらない

多くの人は「本人が死んだのだから契約も終わる」と思い込みがちだが、賃貸借契約は賃借人の死亡によって当然には終了しない。賃借権は財産権の一種であり、相続人に承継される。相続人が一人でも複数でも同じで、全員が共同でこの「賃借人の地位」を引き継ぐことになる。全日本不動産協会の解説によれば、賃借権は民法898条により相続人の共有に属し、賃料の支払義務も相続人の誰か一人に全額を請求できる「不可分債務」になる。実家に住んでいない相続人であっても、賃貸借契約の当事者としての立場からは逃げられない。管理会社がまず相続人全員に連絡を取ろうとするのは、ここに理由がある。

相続放棄を考えているなら、民法921条の「処分」を思い出す

遺品整理をしながら相続放棄を検討している場合、立ち止まって確認すべきは民法921条1号だ。「相続人が相続財産の全部又は一部を処分したとき」は単純承認をしたものとみなされ、あとから相続放棄をしようとしてもできなくなる。遺品の処分と単純承認の関係は遺品を勝手に処分すると相続放棄ができなくなる?「法定単純承認」をわかりやすく解説で詳しく扱ったが、ここで言う「相続財産」には現金や家財だけでなく、賃借権や敷金返還請求権のような権利も含まれる。921条1号には例外があり、「保存行為及び第602条に定める期間を超えない賃貸をすることは、この限りでない」とされている。部屋に残った家財を運び出す遺品整理そのものは通常この保存行為の範囲に収まるが、契約そのものを「解約する」という行為、そしてそれに伴って受け取る敷金は話が別になる。借金の有無が読めず限定承認も検討しているなら、遺品整理で借金が見つかったら?「限定承認」で実家を残す仕組みと、相続放棄との違いをわかりやすく解説も合わせて確認しておきたい。同じ理屈は、故人名義の車を相続放棄前に動かしてよいかという場面にも当てはまる。遺品整理で故人名義の車が見つかったら?名義変更・廃車の手続きと、相続放棄前に乗ってはいけない理由で扱った「乗ってはいけない理由」と、根っこにある条文は同じだ。

敷金を受け取る行為は、なぜ「処分」に近いと言われるのか

敷金そのものの法的な性質から確認したい。最高裁昭和48年2月2日判決は、敷金が賃貸人の持つ一切の債権を担保するものであり、返還請求権は明渡しが完了した時点で、それまでの債権を差し引いた残額について具体的に発生すると述べた。つまり敷金返還請求権は、明渡しが終わるまでは「将来いくら戻るか確定していない権利」であり、被相続人の財産の一部として相続人に承継される。この権利を行使して現実に金銭を受け取る行為が単純承認の「処分」にあたるかどうかを直接判断した最高裁判例は、調べた範囲では見当たらない。ただ実務で参考にされているのは、被相続人が大家として持っていた賃貸マンションの賃料の振込先を相続人名義の口座に変更して受け取った行為を「処分」と判断した東京地裁平成10年4月24日判決だ。賃料という形の金銭を相続人が自分の懐に収めた点で、敷金の受領と状況が近い。司法書士事務所などの実務解説では、この判決の論理を敷金にも類推し、解約して敷金を受け取る行為は単純承認とみなされるおそれがあるという立場を取ることが多い。結論が確定した話ではなく類推にとどまる、という留保はつけたうえで、だからこそ「受け取ってから相続放棄を検討する」のではなく「相続放棄をするかどうか決まるまで、解約と敷金の受領は保留する」という順番で動く方が安全だというのが、実務上の共通認識になっている。

原状回復費用を差し引かれるだけなら「処分」にならないのか

退去時に請求される原状回復費用についても、同じ種類の注意が必要になる。賃借人は民法621条により、通常の使用による損耗や経年変化を除いた損傷について原状回復義務を負う。管理会社が敷金からこの工事費用を差し引いて清算するだけなら、相続人が新たに金銭を受け取る場面というより、もともと被相続人が負っていた債務を履行しているに近い側面がある。保存行為に近い処理として扱われる余地はあるが、差し引いた後に残額があればその分は結局相続人が受け取ることになるので、受領のタイミングには引き続き注意が要る。さらに、原状回復費用の算定そのものにも、相続人が確認しておくべき落とし穴がある。

通常損耗の分まで請求されたら――最高裁平成17年12月16日判決という基準

最高裁平成17年12月16日判決(敷金返還請求事件)は、賃借人が通常の使用による損耗の補修費用まで負担するには、その範囲が賃貸借契約書に具体的に明記されているか、賃貸人が口頭で説明し賃借人が明確に理解して合意したと認められるなど、特約が明確に合意されている必要があるとした。国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」も、通常の使用による損耗と経年変化は賃借人の負担にならないという原則を同じ立場で示している。管理会社から送られてきた敷金の清算書に、クロスの全面張り替えやフローリングの全面補修といった費目が並び、契約書にその範囲を具体的に定めた特約が見当たらない場合、相続人にはその分を争う余地がある。これは故人に代わって相続人が行う交渉であり、権利を主張すること自体が保存行為の範囲を超えるわけではない。

相続放棄をした後も、荷物を置いたままにできない理由

無事に相続放棄の手続きが終わっても、賃貸物件の問題がそこで消えるわけではない。民法940条1項は、相続放棄をした者が放棄の時点で相続財産を現に占有している場合、相続人または相続財産清算人に引き渡すまでの間、自己の財産におけるのと同一の注意をもってその財産を保存しなければならないと定める。この規定は2023年4月1日施行の改正で、対象が「現に占有している」場合に限定され、義務の内容も「管理の継続」から「保存」へと軽くなった。賃貸アパートの遺品を運び出し、部屋の鍵も管理会社に返した後なら、その部屋をもう「占有している」とは言いにくく、保存義務からも外れやすい。逆に、遺品がまだ部屋に残っている段階で相続放棄をした場合は、保存義務が続く。相続放棄をしたら遺品整理はしなくていい?「現に占有」している人に残る保存義務と、遺品を処分してはいけない理由で扱った内容が、そのまま当てはまる場面だ。大規模な修繕や、部屋を清算するための売却までは求められないが、建物が傷まないよう最低限気を配り、次の相続人か相続財産清算人に引き渡す義務は残る。賃貸物件の場合、この引き渡し先を賃貸人(管理会社・大家)としてよいのか、次順位の相続人を探して引き渡すべきなのかという判断が必要になる場面もあり、ここは専門家の判断を仰いだ方がいい。

管理会社には「解約します」ではなく「確認中です」と伝える

管理会社から電話やメールで解約・敷金の連絡が来たとき、その場で即答する必要はない。「相続人としての手続きを確認している最中なので、しばらく時間をいただきたい」と伝えれば十分で、それ自体が処分にあたることはない。敷金の返金先を自分名義の口座に指定する作業、解約届への署名、原状回復費用の清算への同意——これらは相続放棄をするかどうかが決まるまで、できるだけ後ろに回す。負債の有無に確信が持てないなら、民法915条が定める3か月の熟慮期間のうちに弁護士か司法書士に相談し、解約と敷金の扱いをどう進めるべきかを先に確認する。借金が見当たらず相続することが決まっているなら、ここまでの慎重さは不要になる。迷っている間だけ、管理会社からの電話に「分かりました」とすぐ答えないこと。それが、今すぐにできる一番確実な備えになる。

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