遺品整理で引き出しの中から、几帳面な字で書かれたノートが出てくることがある。預金口座の一覧や延命治療についての希望に加えて、「長男には実家を、長女には預金を」といった具体的な分け方の希望まで書き込まれていると、相続人の一人が「お母さんはこう書いているのだから、この通りに分けよう」と言い出すことがある。だが、このノートに実際そこまでの力があるのかどうかは、感情の問題とは別に、きちんと確かめておく必要がある。
「この通りに分けて」と書いてあっても、相続人を従わせる力はない
東京弁護士会の終活法律サービス委員会は、エンディングノートについて「エンディングノートには、法的効力はありません」と明記し、「そのため、エンディングノートを作成したからといって、財産を移転させる効果はありません」と説明している。東京弁護士会「出来ないこと─エンディングノートの法的効力」では、家族がノートを見つけて内容を汲み、遺産分割に反映させてくれる場合もあるとしつつ、ノートが見つからない、発見されても分割が終わっている、発見されても従わないといった事態が起こりうることも指摘している。つまりノートに書かれた希望は、相続人全員が納得して遺産分割協議(民法907条)に取り込んだときにだけ実現する。一人でも「ノートの通りにはしない」と言えば、それを強制する法的な根拠はエンディングノート側にはない。
効力がないのは「ノートだから」ではなく「要式を満たさないから」
ここで誤解しやすいのが、効力の有無を決めているのは表題ではないという点である。自筆証書遺言の効力を定める民法968条は、遺言者が全文・日付・氏名を自書し、押印することを要件としており、法務省の案内でもこの要件が確認できる。ある法律事務所の遺言相続に関する解説は、自筆証書遺言の書面の形式について「証書の形式にも制限はない」としたうえで、「手紙・はがきや債務証書であっても本条の方式を備えれば有効である」と整理している(弁護士法人の自筆証書遺言に関する解説)。つまり「遺言書」という表題がなくても、968条の要式をすべて満たせば自筆証書遺言として有効になる可能性があるということだ。裏を返せば、市販のエンディングノートの大半が効力を持たないのは、ノートという形式そのものが理由ではなく、テンプレートの記入欄に署名・押印の欄がなかったり、全文が自書ではなく印刷された質問項目に書き込む形式になっていたりして、968条の要式を満たさないことが理由になる。表題を「遺言書」に変えるだけでは何も解決せず、要式を満たすかどうかがすべてを分けている。
財産目録はパソコンで作れる―2019年の方式緩和とノートの使い道
968条には2項があり、財産目録については自書しなくてよく、パソコンで作成した目録や、登記事項証明書・預金通帳のコピーを添付する方法も認められている。ただしこの場合、目録の各ページ(両面に記載があれば両面とも)に遺言者の署名と押印が必要になる。この方式緩和は、法務省が公開している施行日の一覧によれば平成31年(2019年)1月13日に施行された。法務省「民法の一部を改正する法律等の施行日について」この改正によって、エンディングノートに書き込んだ預貯金口座や不動産の一覧を、そのまま遺言書の財産目録として転用することも実務上は可能になっている。一方で、遺言の本体部分、つまり「誰にどの財産を渡すか」を定める部分は、依然として全文の自書・日付・氏名の自書・押印が必須であり、ここだけはノートの自由な書き込みで代用することができない。エンディングノートは財産目録の下書きとしては使えても、分配を決める本体部分の代わりにはならない。
法務局の保管制度は、エンディングノートを預かってくれない
自筆証書遺言書保管制度を使えば、法務局が遺言書の原本を保管し、相続開始後の家庭裁判所での検認手続も不要になる。この制度を自分の生前整理に組み込みたいと考える人は多いが、保管の対象になるのは968条の要式を満たした無封の自筆証書遺言書に限られ、A4用紙・片面のみ・所定の余白の確保といった様式も別途定められている。エンディングノートをそのまま持ち込んでも、様式が合わず預かってもらうことはできない。自筆証書遺言書保管制度の手続きの詳細は自筆証書遺言を法務局に預けるとどう変わる?で、公正証書遺言との選び方は遺言書はどう書けば無効にならない?で扱っている。ノートで気持ちや財産の全体像を整理したうえで、分配を確定させたい部分だけを別に遺言書として作成し、それを保管制度に預ける、という二段構えが実務的な進め方になる。
暗証番号やパスワードは書かない―自治体の案内が示す注意点
エンディングノートにはどこまで書いてよいかという点にも、注意すべき境界線がある。鹿児島市が公開しているエンディングノートは、金融機関や電子機器の暗証番号についてはっきりと注意を促している。「エンディングノートが盗難されたり悪用されたりする場合に備えて、銀行やクレジットカードなど金融機関、パソコンや携帯電話など電子機器の『暗証番号』は、エンディングノートには記載しないようにしましょう」としており(鹿児島市「エンディングノート」)、ノートは家族に見つけてもらうことを前提に作る以上、紛失や盗難のリスクも同時に抱え込むことになる。書くべきなのは「どの銀行に口座があるか」「どのサービスを契約しているか」という存在そのものの一覧であって、暗証番号やパスワードといった認証情報そのものではない。認証情報を家族に引き継ぐ具体的な方法については、スマートフォンのロック解除や契約の解約手続きを含めてデジタル遺品とは?で扱っている。
ノートの余白に書き直しても、遺言の内容は変わらない
すでに遺言書を作成した人が、後から気が変わってエンディングノートの余白に「本当は長女にも分けたい」などと書き加えても、それだけでは遺言の内容は変わらない。968条3項は、遺言書本体への加除その他の変更について、変更箇所を指示し、変更した旨を付記して署名し、変更箇所に押印しなければ効力を生じないと定めている。エンディングノートへの書き込みはこの要式を満たさないため、既存の遺言の効力にはいっさい影響しない。遺言の内容を変えたいのであれば、新たな遺言書を作成するか、正式な方法で撤回する必要があり、その手続きは遺言書を書き直したい・撤回したいときはどうする?で扱っている。逆に遺言書がそもそも存在せず、エンディングノートだけが残されている場合は、その記載は遺産分割協議の参考資料にしかならない。相続人の間で意見が分かれ、ノートの記載をどこまで尊重するかで協議がまとまらないときの進め方は、遺産分割協議がまとまらないと遺品整理はどうなる?で解説している。
ノートは気持ちを伝える道具、分け方を決めるのは遺言書
エンディングノートは、何がどこにあるかを家族に伝え、延命治療や葬儀についての希望を共有するための道具として十分に機能する。だが「誰にどの財産を渡すか」という一点だけは、ノートに書き込むだけでは確定しない。家族がノートを見つけて「この通りにしよう」と口にしたとしても、それは相続人全員の合意があってはじめて成立する約束であり、ノート自体がその合意を強制しているわけではない。分配そのものを確定させたいなら、ノートとは別に、968条の要式を満たした遺言書を用意するしかない。

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